玄sスタイル
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プロフィール

玄・経歴

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1993年4月  「ラーメン工房めんめん」秋葉原の裏通り、4.5坪で開業

1994年~  「めんめん」FC事業開始、店舗の展開

1997年    医学博士・三好基晴氏と出会い、氏の指導の下、オーガニック食材の研究を開始。翌年から、

                   アトピー患者でも食べられる、安全性の高い素材だけで「玄流塩ラーメン」を開発するため、全国

                   の生産者を訪問。素材開発の後、2年後に、発売開始。

1999年   「ラーメン創房 玄」に店舗名を変更、「玄麺」発売開始

2000年   店舗展開、プロデュース開始

2002年   「玄流塩ラーメン」が、雑誌「東京ウォーカー」の読者人気投票で、塩ラーメン部門NO1受賞

2003年   「週刊現代」日本の料理人ベスト100に選出される

2005年   引退し、プロデュース業を始める

2009年   株式会社 玄 設立

2010年   NPO法人 「GEN Natural Factory」設立 秋葉原「玄菜院」開院

玄の歴史

ラーメンとの出会い;

不幸な形での出会いでした。22歳の私は、貧乏のどん底で、それでも、泥沼から這い上がろうと、築地市場の仲買の仕事をしながら、中央大学法学部通信教育学部で勉強を続けていました。ただ、法律学の勉強には、結局興味を持てず、法学部政治学科の学生たちとの西洋政治思想史の研究に夢中になっていました。そんな時、小さな食品問屋を営んでいた父が、ガンで倒れ、その仕事を受け継ぐことになりました。来る日も、来る日も、膨大な量のカップラーメンを仕入れ、配達する仕事が、10年続きます。
私は、化学調味料に異常反応してしまう体質で、カップラーメンはもちろん、化学調味料漬けのラーメンを食べることが出来ません。生活のためとは言え、自分で食べることすら出来ないものを、日々、お客様に販売するのはつらい仕事でした。
いつの日か、自分が食べることが出来、自信を持って、人に提供できるラーメンを作りたいという思い、そんな小さなお店を持ちたいという夢を、常に持ち続けていました。

ラーメン屋デビュー;

1993年4月、秋葉原電気街の裏通りに、4.5坪の、ちっぽけなラーメン屋「ラーメン工房 めんめん」を開業します。秋田の稲庭で特注の多加水麺を打ってもらい、化学調味料を一切使用しない「自然派こだわりラーメン」という形で、オーソドックスな本格醤油ラーメンだけで勝負しました。周囲の反対を押し切っての開業でしたが、確かに来客数は少なく、それでも、根っからの研究熱心さで、来る日も来る日も、暇に飽かして、ラーメンの研究を続けました。


「超こだわりラーメン」誕生;

研究成果は、膨大な量の研究ノートの実験レシピとして残っています。「超こだわりラーメン」の最初のレシピを書いたのは、長女の誕生日、彼女の生まれる日、12年間のラーメン屋人生の中で、唯一お店を休んだ日です。この娘を含め、21世紀を担う子供たちに、本物のラーメンを残すことが私の使命であると強く感じました。それには、当時提供していたラーメンは、無化調とはいえ、キャリーオーバーなどといった問題もごまかして作っていた妥協の産物と思えました。採算は度外視しても、本当に、子供たちに食べてもらいたいラーメンは・・・ということで、当時、自身の食生活で使っていたオーガニック素材だけでラーメンを作ってみました。常連のお客様に試食をしてもらっているうちに、人気の隠れメニューになってしまい、当時、お客様たちが勝手につけた呼び名「超こだわりラーメン」という妙なメニュー名がそのまま正式名称になってしまいました。第一回の試作後、約1年の間、何度もレシピの見直し、試作を繰り返し、「玄」のNO.1人気メニューになっていました。


「ラーメン創房 玄」;

「めんめん」は、開業後半年を過ぎたころから、当時のラーメンブームの影響もあり、TV、雑誌で頻繁に取材される店となり、常に行列の絶えない人気店になりました。
人間、弱いもので、少しでも売り上げを伸ばそうと欲が出て来ます。仕事の質へのこだわりが薄れ、少しでも売り上げを伸ばすため、仕込みを合理化し、本来の道を忘れかけてしまいました。その危険性に気付いた時、一切のメディアの取材を拒否し、敢えて「めんめん」の屋号も捨て、もう一度、ラーメン作りの原点に立ち返ろうと始めたのが、「玄」でした。ラーメン作りを真剣に追及する姿勢に共鳴してくれた多くの優れた弟子たちが入門、育って行きました。

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「玄」の終焉;

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約10年間、秋葉原のはずれ「末広町」で営業してきましたが、4.5坪の店舗では、24時間体制でも、膨大な仕込み作業をこなすことが出来なくなり、御茶ノ水寄りの「昌平橋」に移転を余儀なくされます。移転後、優秀な弟子たちに恵まれたこともあり、売り上げも伸び、仕事のレベルも向上して行きました。しかし、開業当初から、悪質な組織が進入をはじめ、気がついたときには、「玄」の経営を奪われてしまいました。その結果が、「大宮REX店」、湯島「玄や」という店舗の出店です。その後、「ラーメン創房 玄」の屋号でありながら、コントロール不可能な店舗が増殖し、「玄」とは、まったく違った味を提供し始めてしまいました。「玄」に命をかけてきた者の責任として、最後に、買収できる限りの店舗を買い取り、閉鎖しました。そのために大きな負債を背負ってしまい、結果が、「玄」の崩壊です。